ヒロセビル近隣の探索です

 弊社・新宿ヒロセビルは新宿通りと外苑西通りの交差点「四谷四丁目」の一角に位置しています。「四谷四丁目」は以前「四谷大木戸」と呼ばれ、非常に歴史ある地点です。ここでその歴史を振り返ってみましょう。

「四谷」の由来
「四谷」という地名の由来には、いくつかの説があります。
 (1)江戸時代の内藤清成が家康の江戸入国に先立ち西方の警備を命ぜられた際、清成を案内したのが「よつやの五郎兵衛」であったとされる説。
 (2)梅屋・木屋・茶屋・布屋と呼ばれる四つの茶屋があったところから「四ツ家」から四谷になったとされる説。
 (3)地形的に四つの谷があったところから四谷と呼ばれるようになったとされる説。
いずれの説もある程度裏付けがあるようでないようで、どれが正解と言うよりも様々な呼び方が複合的に重なって「四谷」になったとも言われています。

「四谷大木戸門」
 四谷四丁目の交差点を以前は「四谷大木戸」と呼んでいました。
これは江戸時代に「大木戸」という関所が建っていたからです。
 国府道(今の府中に行く道)と鎌倉から奥州に向かう奥州道の交差するこの場所に元和二年に内藤氏の陣を廃止して設けたのが大木戸でした。
 木戸の四谷北側に番屋がありここで通行人や馬の荷物を取り締まっていて、事件が起きると木戸を締め鐘を鳴らして人々に知らせていたそうです。
 大木戸とは、江戸から地方に向かう主要街道に設けられた検問所であり、見附と同じような機能を持つものといえますが、見附は城内へ入る検問所であるのに対し、大木戸は、江戸市街地へ入る検問所でした。
 江戸という町はここまで、という境界をはっきりさせるものであり、江戸から西へ向かう人にとっては、この場所で江戸を離れることになり、反対に甲州街道や青梅街道を旅してきた人たちは、ここが江戸の入り口でした。
 江戸の太平が続くようになると寛政四年に木戸は、取り払われ石垣だけが残されました。

四谷大木戸跡
四谷大木戸跡

 
四谷内藤新宿
四谷内藤新宿 江戸名所図会
四谷内藤新宿
四谷大木戸門 宅建新宿区支部報表紙
四谷内藤新宿
四谷内藤新宿 (緑マークが新宿ヒロセビル) 四谷絵図(1864)
四谷内藤新宿
史跡説明

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